
常任指揮者 :山本 収
大阪音楽短期大学器楽科ピアノ専攻卒業。甲子園短期大学講師を経て現在ピアノレスナー。
1992年より常任指揮者に就任。その他、神戸女声合唱団、女声コーラス「こぶし」常任指揮者。作曲活動では、氏の編曲による『こどものうたピアノ伴奏集』(ばるん社)を出版。日本音楽工房を設立し、演奏会CD、レッスン用テープ等の作成も手がける。
1963年11月神戸市役所に勤める若者が中心となって創立。平和で健康な音楽を多くの人々に広げることを目的に掲げ、人々の願いや要求を音楽の源泉とした音楽演奏・教育・創作活動を展開している。
84年の『悪魔の飽食』(原詩/森村誠一 編詩/池辺晋一郎・神戸市役所センター合唱団 作曲/池辺晋一郎)、96年4月の阪神大震災鎮魂組曲『1995年1月17日』(同)の制作・初演をはじめ、これまで日本の音楽界を代表する三枝成彰氏、青島広志氏、新実徳英氏、木下牧子氏、信長貴富氏など多くの専門家に委嘱し新作を次々と発表するなど意欲的な活動を繰り広げている。
05年10月には新潟県小千谷市にて中越大震災復興記念式典のなかで、東北支援のため11年5月、12年3月と2年続けて宮城県南三陸町で避難所コンサート、1周年復興祈念コンサートを行い、これまで100回を越える鎮魂組曲の演奏を行ってきた。16年は戦没画学生の遺作を蒐集している「無言館」をテーマに混声合唱組曲『こわしてはいけない』(詩/窪島誠一郎 曲/池辺晋一郎)、18年は55年記念委嘱作品として平和への想いをさり気ないメッセージで描いた混声合唱曲集『あれは風だったのですか』(詩/門倉訣 曲/信長貴富)を初演、好評を博す。
これまでの合唱団の震災からの立ち上がりを綴った『炎と涙の底から-鎮魂と再生のハーモニー-』と、合唱・和太鼓・笑いで描くうたごえワールド『ビジョンの狩人』をクリエイツかもがわから上梓。96年神戸市文化活動功労賞受賞。01年関西合唱連盟・長井賞を受賞。
2020年10月10日現在(作成:合唱団事務局 樋口玲子・宮本駿)
大阪音楽短期大学器楽科ピアノ専攻卒業。甲子園短期大学講師を経て現在ピアノレスナー。
1992年より常任指揮者に就任。その他、神戸女声合唱団、女声コーラス「こぶし」常任指揮者。作曲活動では、氏の編曲による『こどものうたピアノ伴奏集』(ばるん社)を出版。日本音楽工房を設立し、演奏会CD、レッスン用テープ等の作成も手がける。
桐朋学園大学ピアノ科卒業。第30回日本ピアノコンクール特級の部第2位。 ピフレホールにてソロリサイタル開催。兵庫県芸術文化センター神戸女学院ホール、松方ホール、ハーバホールなどでジョイントリサイタルを開催。 現在、混声合唱団コーロKSC、星和台混声合唱団、ハートコール星和台、混声合唱団ハーモニーゆう、KSC歌曲をうたう会、KSC男声合唱団、女声コーラスゆずり葉ピアニスト。
兵庫県立西宮高等学校音楽科卒業、大阪音楽大学卒業、同大学院修了。飯塚新人音楽コンクール第1位、文部科学大臣賞、朝日新聞社賞受賞。シュナイダー・トルナフスキー国際声楽コンクール第3位。宝塚ベガ音楽コンクール第5位。
ドイツのエアフルト歌劇場にて、『ヘンゼルとグレーテル』『ばらの騎士』に出演。国内では『カルメン』ミカエラ役、『ジャンニ・スキッキ』ラウレッタ役、『ラ・ボエーム』ムゼッタ役 他、多数出演。
NHK-FM「名曲リサイタル」、NHK-BSプレミアム「クラシック倶楽部」、兵庫県立芸術文化センター「ワンコイン・コンサート」など出演。ベートーヴェン「交響曲第九番」、フォーレ「レクイエム」、モーツァルト「レクイエム」、ヘンデル「メサイア」他、ソプラノソリストとして活躍。
兵庫県立西宮高校音楽科非常勤講師、大阪音楽大学演奏員、日本ドイツリート協会、西宮音楽協会会員、神戸市混声合唱団団員。
大阪音楽大学短期大学部卒業。指揮法を斉田好男氏に師事。現在、須磨ニュータウン少年少女合唱団、女声合唱団オルテンシア指揮者。兵庫県合唱連盟副会長。兵庫県指揮者協会会員。
大阪芸術大学音楽教育科卒業。沖本ひとみ氏に師事。現在、とんだばやし混声合唱団、大阪狭山市民合唱団、喜志女声コーラス、ブリランテ、グレゴリオ聖歌を歌う会の指揮及び指導、合唱指導法連続講座中野塾の伴奏者。LICはびきのオルガン講座の研究コース受講中。
埼玉県熊谷市出身。12歳にして、日本で最後の空襲となった熊谷空襲を体験。のちの「反戦平和」の原体験となる。埼玉県立熊谷商業高等学校卒業後、伯父の紹介で都内の自動車部品会社に勤めるが、商品を輸送中に神田駿河台の坂を車が登れず困っていたところを明治大学生に助けられ、大学生になるのもよいと考え、青山学院大学文学部英米文学科に進学。在学中はハイキング部に所属し、山歩きに熱中した。1年留年したが、1958年に25歳で卒業。しかし大学卒業時は就職不況時代であったため、希望したマスコミ業界には就職できなかった。英語が得意だったことと、妻が新大阪ホテル(現リーガロイヤルホテル)の重役の姪だったこともあり、同ホテルに就職。1年後に東京の系列ホテルに転勤するが、妻のコネという庇護から逃れるため、その頃オープンしたホテルニューオータニに自力で飛び込み、転職した。ホテル勤務は9年におよぶ。 幼い頃から本の虫で、初めて作家になりたいと思ったのは12歳の時だったが、その思いを強くしたのは東京の都市センターホテル勤務時代。目の前に文芸春秋の社屋ができ、梶山季之や阿川弘之、黒岩重吾、笹沢左保ら当時の流行作家がホテルを定宿にして執筆していた。フロントマンとして度々接していると、そのうち親しくなった梶山が森村に原稿を預け、各社の編集者に渡すよう頼んでくるようになる。そしてその原稿を盗み読みし、続きを自分なりに書いてみると、次第に3本に1本は「俺の方が面白い」と思えて自信を持つようになる。後年梶山にそのことを伝えると「お前は、俺のモグリの弟子だな」と言われたという。しかしながらホテルでの仕事は相変わらず「自分の個性を徹底的に消す」職場環境であり、「鉄筋の畜舎」と感じていた。そんな中、出版社に勤める友人の紹介で総務関係の雑誌にサラリーマン生活に関するエッセーなどを書き始める。好評だったため、1965年、32歳で『サラリーマン悪徳セミナー』を母親の名前からとった雪代敬太郎というペンネームで出版し、作家デビューする。その後、副業を咎める上司の言葉をきっかけに、34歳でビジネススクールの講師に転職。執筆を続け、青樹社からビジネス書や小説『大都会』を出版するが売れなかった。しかし1969年、「ミステリーを書いてみたら?」と言われて執筆したホテルを舞台にした本格ミステリー『高層の死角』が第15回江戸川乱歩賞を受賞する。その翌年、1970年に刊行した『新幹線殺人事件』が60万部のヒットとなり、推理作家としての道が開ける。1973年、『腐蝕の構造』で第26回日本推理作家協会賞を受賞。 推理小説のシリーズキャラクターとして、棟居弘一良(棟居刑事シリーズ)、牛尾正直(終着駅シリーズ)を生み出している。1977年に映画化された『人間の証明』を中心とした、角川書店の角川春樹社長のブロックバスター戦略の存在の一人となり[要出典]、作品は大半が文庫化され、一躍、ベストセラー作家になった。なお、『人間の証明』は映画化を前提に、角川から依頼されて執筆したもの。その際、角川から「あなたにとって作家の証明となる作品を」と言われたことや、“しょうめい”という音の響きを森村が気に入ったことが題名の由来である。続く『野性の証明』も、やはり映画化を前提で、角川から依頼されて執筆している。著作の累計発行部数は1億部を超える。 日本共産党機関紙『赤旗』に連載した『悪魔の飽食』シリーズは、旧日本軍第731部隊の実情を明らかにしたものであると作者が主張したことから話題を呼んだ。また、同シリーズの1982年続・悪魔の飽食で掲載した731部隊蛮行の証拠として掲載した多くの写真が、1912年出版の「明治四十三四年南満州『ペスト』流行誌」の記録写真からの流用であると発覚し、森村誠一は公式に謝罪していることも話題を読んだ。この資料を基に護憲派として、九条の会の講演会などで発言も行っている。 同年代の作家として大藪春彦と交遊があり、森村は大藪の葬式で弔辞を読み上げた。また「思想の違い」を乗り越えて、角川春樹とは同志的連帯感があり、角川が麻薬事件で逮捕された時は、「角川書店の将来を考える会」を自ら主導して結成した。その記録を『イカロスは甦るか―角川事件の死角』として出版した。 最近では写真俳句に関心を持ち、旅行時や散歩時もカメラを持ち歩いている。写真俳句についての著作は『森村誠一の写真俳句のすすめ』(スパイス刊)がある。このことは2006年3月1日付けの朝日新聞「aspara NAXT-AGE」コーナーに掲載された。また、「アスパラ写真俳句塾」審査員も務める。
1963年、東京都立新宿高等学校卒業。1967年、東京芸術大学卒業。1971年、同大学院修了。中学・高校時代には、クラリネットを吹いていた経験もある。高校で合唱をしていた際、そこで宇野功芳(音楽評論家)が講師をしていた。大学では池内友次郎、矢代秋雄、三善晃、島岡譲に師事する。大学で1年先輩の三枝成彰と親交があり、共に当時の若手作曲家のホープとみなされていた。在学中に書いた室内楽曲「クレパ七章」で注目され、武満徹の目に留まり、一時期映画音楽のアシスタントを務めた。10曲の交響曲をはじめとする演奏会用作品の他、黒澤明や今村昌平の監督作品をはじめとする映画音楽、校歌、NHK大河ドラマやアニメ『未来少年コナン』などのテレビ番組の音楽も多く手がけている。 また、アマチュア音楽界、特に合唱とは深い関係を持っている。全日本合唱連盟の役員を長年務める一方で、1984年に混声合唱組曲「悪魔の飽食」を神戸市役所センター合唱団の委嘱で作曲したことがきっかけとなって、うたごえ運動とも交流がある。全日本吹奏楽コンクールの課題曲も委嘱されて作曲している。2007年より、せたがや文化財団音楽事業部音楽監督を務め、イベントの際には舞台上で短いトークを披露する。 『N響アワー』(NHK教育テレビ)に2009年3月までの13年間司会者として出演した。日本中国文化交流協会理事長。日本作曲家協議会元会長。日本音楽作家団体協議会元会長。東京音楽大学教授。2007年4月1日より横浜みなとみらいホール館長。ダジャレ好きで有名。広島カープファン。女優の香川京子は父の従妹である。 「九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人、「世田谷・九条の会」呼びかけ人を務めている。世界平和アピール七人委員会メンバー。
1952年神戸市兵庫区生まれ。神戸市役所に勤務するかたわら72年、神戸市役所センター合唱団に入団、現在同合唱団団長。テノール。プロデュースした作品に混声合唱組曲『悪魔の飽食』ほか多数。それらの多くの作品が㈱全音楽譜出版社より 出版されている。1980年より日本のうたごえ全国協議会常任委員、94年より同副会長。2014年2月同会長に就任。 89年に合唱団の民謡部を母体に旗揚げした太鼓衆団輪田鼓(ワダツミ)代表、93年に輪田鼓を専属太鼓集団に擁して創立された「こうべ輪太鼓センター」代表。和太鼓は「歌舞団若駒」、関刀鼓、玉村武、 高野右吉の各氏に師事。2013年には「こうべわだいこセンター」のダジャレの境地から姉妹団体として、「こうべわらいっこセンター」、すなわち「神戸笑いっ子センター」を「笑いの芸能」域に踏み込み「うたごえ」としてはじめて立ち上げ、 常席の「笑びす寄席」を席亭として主催している。 和太鼓に関しては自らも40年余活動を続け、数々の舞台を務めている。2000 年には湊川神社からの依頼により3章からなる『湊川神社悠心(ゆうしん)太鼓』を作調。以降毎年、同神社の楠公祭で輪田鼓による奉納演奏が行われてい る。2008年には、小野市観光協会からの委嘱により3曲構成の~小野市ふるさとの調べ~『播磨乃國烈光太鼓(はり まのくにれっこうだいこ)』を作調。ほかにも太鼓作品として『灘の一ツ火』『残瀝』『四神の祀り』『四神の祀り』等、数多く作調。 これまでに 1 万トンの船をチャーターして開催した日本のうたごえ神戸祭典・船上フェスティバルや高級ホテルを安価で借り切っての全国保母のうたごえ祭典交流会、兵庫県内の震災被災地 11 ケ所での神戸・淡路縦断「人間復興」コンサート等々、奇抜なアイデアで数多くの行事を成功させる。それらのキーワードは常に「目玉探し」と「未知との遭遇」、「夢とロマン」である。 太鼓創作劇『灘の一ツ火~狸と狐と人間が織りなす化かしあい~』(99 年)、方丈記を題材にした和太鼓ものがたり『龍ならばや雲にも乗らむ』(04 年)、和太鼓としの笛・琵琶で奏でる源平ものがたり『源平遥かなり』(07 年)、和太鼓としの笛・ふるさと民謡・民舞による旅ものがたり『おくのほそ道』(09 年)、『平家三響―清盛・敦盛・知盛―』(10 年)、和太鼓としの笛、雅楽、聲明でつづる歴史ロマン『鑑真和上』(11 年)、和太鼓としの笛、土蜘蛛と大蛇の舞いでつづる鬼伝説『酒呑童子』(12 年)、和太鼓としの笛、モンゴル舞踊でつづる『蒙古襲来』等々22作の脚本、演出を手がけ、好評を博する。合唱関係では、日本を代表する池辺晋一郎氏にこれまで 10 作の委嘱作品はじめ、他にも三枝成彰、新実徳英、木下牧子、青島広志、信長貴富各氏にも珠玉の混声合唱作品を委嘱し、初演を成功させている。 この他01年には世界的太鼓奏者・林英哲作曲の『千の海響』を打ち鳴らす神戸海響祭1000人太鼓の実行委員長に就任、1200人による野外での演奏を成功させる。また、03年に提唱して取り組まれた「神戸音楽センター会館・こうべ輪太鼓センター会館」建設の提唱者であり遂行のリーダーとしての手腕を発揮し、作家・森村誠一、作曲家・池辺晋一郎両先生に会館建設の代表よびかけ人に就任していただき、全国・地元の多くの方々から物心両面にわたるご 支援を得て「合唱と太鼓」の創造活動の砦となる「会館」という 夢のプラン実現の要となった。2007年末に神戸市役所を早期退職し、現在「神戸音楽センター会館&こうべ輪太 鼓センター会館」の専任館長。この会館を多くの人に使い親しまれる会館として、神戸発の合唱・太鼓の音楽文化発展に寄与している。
『二つの海-海に消えた二つの航跡「対馬丸事件・人間魚雷回天」~あの日から60年』 (2004年)