埼玉県熊谷市出身。12歳にして、日本で最後の空襲となった熊谷空襲を体験。 のちの「反戦平和」の原体験となる。埼玉県立熊谷商業高等学校卒業後、 伯父の紹介で都内の自動車部品会社に勤めるが、商品を輸送中に神田駿河台の坂を 車が登れず困っていたところを明治大学生に助けられ、大学生になるのもよいと考え、 青山学院大学文学部英米文学科に進学。在学中はハイキング部に所属し、 山歩きに熱中した。1年留年したが、1958年に25歳で卒業。しかし大学卒業時は 就職不況時代であったため、希望したマスコミ業界には就職できなかった。 英語が得意だったことと、妻が新大阪ホテル(現リーガロイヤルホテル)の 重役の姪だったこともあり、同ホテルに就職。1年後に東京の系列ホテルに転勤するが、 妻のコネという庇護から逃れるため、その頃オープンしたホテルニューオータニに 自力で飛び込み、転職した。ホテル勤務は9年におよぶ。

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幼い頃から本の虫で、初めて作家になりたいと思ったのは12歳の時だったが、 その思いを強くしたのは東京の都市センターホテル勤務時代。目の前に文芸春秋の 社屋ができ、梶山季之や阿川弘之、黒岩重吾、笹沢左保ら当時の流行作家がホテルを 定宿にして執筆していた。フロントマンとして度々接していると、そのうち親しく なった梶山が森村に原稿を預け、各社の編集者に渡すよう頼んでくるようになる。 そしてその原稿を盗み読みし、続きを自分なりに書いてみると、次第に3本に1本は 「俺の方が面白い」と思えて自信を持つようになる。後年梶山にそのことを伝えると 「お前は、俺のモグリの弟子だな」と言われたという。

しかしながらホテルでの仕事は相変わらず「自分の個性を徹底的に消す」職場環境であり、 「鉄筋の畜舎」と感じていた。そんな中、出版社に勤める友人の紹介で総務関係の雑誌に サラリーマン生活に関するエッセーなどを書き始める。好評だったため、1965年、32歳で 『サラリーマン悪徳セミナー』を母親の名前からとった雪代敬太郎というペンネームで 出版し、作家デビューする。